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第八話 体温

Auteur: 海野雫
last update Date de publication: 2026-02-08 19:00:21

 あの日から、なにかが変わった。

 頬に触れた、柔らかい感触。唇の温度。思い出すだけで、その部分がかっと熱くなる。

 額だった。

 頬ではなく、額。でも、それだけのことで、湊の心臓はずっと騒いでいた。

 初心なわけではない。元婚約者とは、当然そういう関係だった。それなのに、鷹宮に触れられただけで、こんなにも動揺している。

 理由は、分からなかった。分からないまま、日々が過ぎていった。

 あれ以来、鷹宮の態度が少し変わったように思う。

 今まで以上に、湊のことを気にかけるようになった。世話を焼きたがる。会社ではいつも通りクールな社長を演じているけれど、家に帰ると表情が和らぐ。

 湊を見るときの目が、柔らかくなった。

 それに気づいてしまってから、湊はますます落ち着かなくなっていた。

 仕事を終えて、マンションに戻った。

 コーヒーを飲もうと思って、キッチンに向かった。

 すると、後ろから足音がついて

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  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第三十話 逃げられると思っていた

     朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十九話 それでもここにいる

     湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十八話 囲う理由

     ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十七話 選ぶこと

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  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十五話 檻の中の日常

     雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第二十一話 君のいない部屋

     朝、湊より早く起きて朝食の準備をする。 その何気ない毎日が、雄一にとって今までにないほどの幸せだった。 ようやく手に入れた、愛する人。「湊……」 彼の名前を口の中で転がすだけで、胸の中がじんわりと温かくなる。 もう何年も、恋い焦がれた人だ。湊を手に入れるために、どんな手段でも使った。湊が傷つくと分かっていても、だ。 湊がこの部屋に来て、三か月が経った。 すっかりここでの生活リズムも整い、雄一が起こしに行かなくても、湊は自分で起きてくるようになった。

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十七話 戻ってきた場所

     日曜日も、いつもと同じ朝がやってきた。 同じ時間に起きてシャワーを浴び、用意してもらった服を着て朝食を取る。 今までと、なにも変わらない。 それでも湊の心は、ふわふわと浮ついていた。 昨日、雄一と甘い夜を過ごした。あれほど深く繋がった。あれほど愛を確かめ合った。 そのことを思いだすだけで、頬が熱くなる。雄一のちょっとした言葉や視線で、顔が赤くなってしまう。 だから、今日からは、もう少し甘い生活になるのかと思っていた。 恋人らしく、手を繋いだり、寄り添ったり。そういうことが、増

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十六話 縋る夜

     雄一の愛の形は、歪んでいる。 湊を自分のそばに縛りつけて、どこにも行かせない。独占欲を隠そうともしない。湊がここから出られないことなど、最初から分かっている。 分かっていてそれでも、縛りつける。 ふたりの間に、沈黙が流れた。 重たい空気が、部屋を満たしている。まるで毒ガスのようで、息をするたびに肺が苦しくなる。 さっきまで言い争っていたのに、今はなにも言葉が出てこない。いつもと同じ距離にいるのに、ふたりの間には透明な壁があるようだった。相手は見えるのに、手を伸ばしても届かない。触れようとしても、弾かれてしま

  • 逃げられると思っていた 〜囲われた男の再就職〜   第十五話 嘘がバレた夜

     リビングに戻った瞬間、空気が変わっていることに気づいた。 部屋の空気が、重い。 息をしているのに、酸素が肺に入ってこないような感覚がした。それどころか、空気の圧力が高まり、肺の中の空気まで押し出されていくような息苦しさがあった。 湊は、ごくりと唾を飲み込んだ。 ソファに座った。いつもと同じ場所。いつもと同じやわらかいクッション。なのに、今日は底なし沼に沈み込んでいくような感覚がした。 すぐ隣に、雄一が座った。 近い。いつもより近い気がする。 こっそりと、雄一の表情を盗み見た。

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